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佐賀地方裁判所 昭和38年(わ)78号 判決 1965年12月25日

被告人 秋山光

主文

被告人は無罪。

理由

本件公訴事実は

「被告人は、国鉄労働組合門司地方本部門司支部の執行委員長であるが、昭和三八年春季斗争にあたり門司鉄道管理局長から鉄道施設等に対するビラ貼付は禁止する旨警告を受けていたのに拘らず右斗争の一環として同年三月一四日午前一〇時三〇分頃、同地方本部書記長高田義新等と共に、鳥栖市京町七〇九番地国鉄鳥栖駅構内駅長室、同事務室壁に「不当処分を撤回せよ、国鉄労働組合門司地方本部」「労働者と国民が犠牲になる第二次五ケ年計画反対、国鉄労働組合門司地方本部」等と記載したビラを貼付しはじめたため、鳥栖鉄道公安室長中村主計指揮の下に博多鉄道公安室所属鉄道公安職員清水正則(当三八年)等が同所駅長事務室前付近において右ビラ貼付行為を制止すると共に貼付されたビラを剥ぎ取つていたところ被告人はやにわに所携のバケツ入り糊を右清水の頭上より浴びせかけて暴行を加え以て同人の職務の執行を妨害するとともに、同人に対し治療三日間を要する結膜充血の傷害を負わしめたものである。」

というのである。

第四、六回各公判調書中証人清水正則の、第五回公判調書中証人久野竹男の、第六、七回各公判調書中証人川原得世、同平塚武彦の、第九回公判調書中証人河野六郎の、第一〇回公判調書中の証人平野津代次の、第一〇、一一回各公判調書中証人近藤忠の、第一一回公判調書中の証人稲田竜男の、第一一、一二回各公判調書中の証人中村主計の、第一三回公判調書中証人倉富喜一の各供述記載、証人高田義新、同樋口京次郎、同池田重信、同馬場信之、同青木博の当公判廷における各供述、門司鉄道管理局報(乙)A第三七九八号、門司鉄道管理局営業部公安課課員稲田竜男、同川原得世各作成の公務執行妨害、傷害事件現場写真記録、司法警察員作成の昭和三八年三月一九日付実況見分調書(同意部分に限る)、押収してあるバケツ一個(押第一号)、同ビラ九〇枚(押第二号)、同制服上衣一枚(押第三号)、同作業服上下一着(押第四号)、同ネクタイ一本(押第五号)、同上衣(アノラツク)一枚(押第七号)、同ズボン一枚(押第八号)、第二、六回各公判調書中被告人の供述記載、被告人の当公判廷における供述を統合すると、被告人は昭和一五年に日本国有鉄道(以下単に国鉄と略称する)に入社し、昭和二二年国鉄労働組合門司駅班の執行委員となり爾来同組合の役員等を経て昭和三五年国鉄労働組合門司地方本部(以下単に本件組合本部と略称する)門司支部の執行委員長となり、昭和三八年三月当時も同組合の同役員であつたこと、昭和三八年春季斗争に当り本件組合本部は国鉄労働組合中央斗争委員会同年二月二八日付指令第二六号に基き春斗の一環として旅客大衆に訴えるようないわゆるビラはり行動をすることとなつたこと、これに対して門司鉄道管理局は同局長村田理名義で同年三月一三日同管理局総務部労働課員河野六郎から本件組合本部において同本部天野組織部長に対して、申入書をもつて「貴組合は賃金引上げ等を中心とする春季斗争の一環として管内の一部業務機関の詰所、車庫、電柱等にビラをちよう付していることは、はなはだ遺憾である。このような行為に対してはこれまでに貴組合の自重を再三促したところであるので、直ちにかかる行動を中止するとともに今後絶対に行わないよう申入れる。なお、これをあえて行なう場合は当方としても相応の処置をとることを申し添え厳重に警告するものである。」と申入れおよび警告をしたこと、にもかかわらず本件組合本部は同日同組合本部管内の全組合専従者、準専従者合計二五、六名が翌一四日早朝から国鉄鳥栖駅においてビラはり行動を敢行することとなつたこと、この情報を入手した右門鉄管理局長から鳥栖、久留米地区の春斗対策処置等の一切の権限を授与された斗争対策本部長平野津代次は鳥栖鉄道公安室長中村主計に右ビラはり行動を阻止すべく出動を命じた結果同公安室長は部下鉄道公安課員清水正則らと共に同日夜半から右鳥栖駅に出動したこと、本件組合本部管内の専従者らは同組合書記長高田義新の指揮の下に翌一四日午前五時三〇分前後から佐賀県鳥栖市京町七〇九番地国鉄鳥栖駅に集合し、同五時四〇分頃から同駅通過の各旅客列車にビラはり行動を開始したこと、被告人はこの行動にカーキー色のアノラツク(押第七号)およびズボン(押第八号)を着用して参加したこと、同七時二〇分頃鳥栖駅長倉富喜一は右ビラはり行動を敢行している組合員に対して拡声器で「ビラはりを中止して構外に退去してもらいたい。」旨警告したうえ同七時五七分頃同駅首席助役をして同駅長室において右組合の責任者高田義新に対して同趣旨の警告書を手交したこと、同日午前一〇時三〇分頃それまで三本の旅客列車に約二、〇〇〇枚のビラをはつた組合員は同駅本屋のあるホームにやつてきて、被告人ら一〇名位の組合員が二、三人ずつグループになつて同一〇時四十分頃から同駅構内駅長室入口、同駅長事務室入口付近の外壁に「不当処分を撤回せよ、国鉄労働組合門司地方本部」、「労働者と国民が犠牲になる第二次五ケ年計画反対、国鉄労働組合門司地方本部」などと記載してあるビラをはり始めたこと、そこで中村主計鳥栖鉄道公安室長は清水正則を含めた部下鉄道公安課員約三〇名に右ビラはりの情況を話したうえ「右ビラはり行動を制止すると同時にこれを排除せよ、排除してなお止めないときははつたビラをはぎ取りこれを地外に廃棄せよ、きかないときは実力を行使して組合員を駅構外に退去させよ。」と強く命じたこと、博多鉄道公安室所属公安課員清水正則(当時三八年)が先頭になり約三〇名の公安職員は待機していた鳥栖駅公安室付近から右ホームに出動して被告人ら組合員のビラはり行動の制止ないし阻止に当つていたこと、当時右清水は制服の上に作業服(押第四号)ならびにひさし(つば)のついた作業帽の上にひさし(つば)のついた保護帽を着用していたこと、被告人は当時右手に糊ばけを左手に水のようなうすい糊が六ないし八分目入つていた上端の周囲約七七センチメートル、底部の周囲約五六センチメートル、深さ約二〇センチメートルの八リツトル入りバケツ(押第一号)を提げて壁に糊つけを行つていたこと、右清水は被告人の近くで組合員のビラはりを制止したりはつたビラをはぎ始めたので同一〇時四七分頃組合員樋口京次郎や池田重信らから「何故ビラをはぐか。」と抗議を受けたこと、その後間もない同一〇時五〇分頃突然右清水正則の顔面から身体の前面にかけて被告人が提げていたバケツの糊がかかつたこと、その右清水の眼部にかかつた糊のため同人は治療二、三日間を要する軽度の眼球結膜充血の傷害を負つたこと、同時刻に右清水は被告人を公務執行妨害罪の現行犯人としてその場で逮捕したことが認められる。

ところで、検察官は、右清水に糊がかかつた原因を、その起訴状ならびに論告要旨において「被告人はやにわに所携のバケツ入り糊を右清水の頭上より浴びせかけ」たと強く主張し、これに対し被告人は「清水が実力で自分らのビラはりを妨害しようとして被告人のすぐ脇に近付きビラはりをさせまいと妨害するため組合員や被告人の抗議にかかわらず「何を。」と言つて糊バケツを提げている被告人の左手首付近をつかみ、力まかせにひつたくりその反動で糊が清水にかかつたものである。」と弁疏するので判断するに、第四、六回各公判調書中の清水正則の供述記載には検察官の右主張に添うように「私の感じとしては顔の方からかぶせて来たような感じをうけた。いわゆるバケツを持つて頭からバアーツとやつたような感じがした。」との供述部分があるが、これをもつて直ちに被告人が検察官主張のようにバケツ入り糊を清水の頭上より浴びせかけたものと認定することはできず、また右供述部分も前示認定のように当時右清水は作業帽の上から保護帽を着用していたのであるから検察官主張のような糊の浴びせ方であるとすれば普通ならば当然その保護帽に糊がかかつているはずであると思料されるのにその保護帽は糊がかかつたものとして証拠物として提出されておらず、また前記写真記録中の符号5および7の各写真を見ても保護帽に糊の付着したことを認め得ないこと、清水の眼部を含めた顔面上部は同人の着用していた二つの帽子の直ぐ下の部分に当り帽子のひさし(つば)のかげになつていたと思われるのに同部位付近に糊がかかつていること、検察事務官作成の現場写真密着焼付(一)中のフイルム番号15の写真が示すように作業帽のひさし(つば)下側(内側)に多量の糊の付着が見られること、右清水着用の作業服(押第四号)の前面にのみ糊の付着が見られその背部には糊の付着が見られないこと、被告人の着衣アノラツク(押第七号)の左前面部などにも糊の付着が見られること、加えて、検察官側証人である証人久野竹男の第五回公判調書中の供述記載には右検察官の主張とは反対に「被告人は糊入りバケツを下から上に振つた、起訴状の右記載部分は事実と違う。」旨供述していることが認められるのであつて、これらの諸事実からすれば被告人がバケツ入り糊を右清水の頭上より浴びせかけたものとは到底認定することはできないのである。

なお、右清水に対し糊がかかつたのは被告人の行為によるものであつたかどうかについて検討してみるに、第五回公判調書中証人久野竹男の供述記載には「被告人は提げていた糊バケツを持ち上げるようにして下から上に振つて右清水にかけた」旨供述している部分があるが、第四、六回各公判調書中証人清水正則の供述記載(但し、本認定に反する部分を除く)、第六、七回各公判調書中証人川原得世の供述記載(但し本認定に反する部分を除く)、鉄道公安課員撮影作成の本事件現場写真記録二通、証人樋口京次郎、同池田重信、同馬場信之、同青木博の当公判廷における各供述(但しいずれも本認定に反する部分を除く)によれば、本件発生の日時は前示認定のように前同日午前一〇時五〇分頃であり、しかもその僅か三分位前の同一〇時四七分頃は右事件写真記録中の符号3の写真が如実に示しているように被告人の左背後付近に右清水がおつて、同人に対し組合員樋口京次郎および同池田重信が何か抗議をしていた状況にあつたこと、その抗議は国鉄当局の申入、警告を無視してビラはりを強行しようとする組合員らとこれを極力阻止しようとする鉄道公安課員清水との間においてのことでしばらくの間続けられていたことならびにその直後頃に発生した本件当時は右清水と被告人の付近には他の組合員らや鉄道公安課員らがいたことが認められるのに右証人久野は前記供述記載中の他の箇所において「本件当時は右清水はみなよりはなれて一人でビラをはいでいた、その付近には組合員の人は見かけなかつた」旨供述しておつて本件発生の時間的ならびに当時の右清水および組合員らの位置状況から考えて同証人の供述も全面的に信頼に値するものとは考えられず、本件発生当時組合員らの活動状況を逐一撮影し本件後間もない捜査当時作成された鉄道公安課員稲田竜男作成の符号5および7の写真説明欄には、いずれも、「博多鉄道公安室公安班長清水正則が秋山を逮捕の際あびせられた糊の状況」と記載してあつて、如何にも右清水が被告人の身体を捕え、あるいは捕えようとしたとき糊を浴びせかけられたものと解せられる説明になつていること、第六、七回各公判調書中証人鉄道公安課員平塚武彦の供述記載によれば、公安課員がビラはりを阻止する場合にはビラをはらせないように糊ばけを取り上げたり、壁の方に身体をもつていつたり、はつておる人を前の方に押しやつたりするなどの行動に出ることもあることが認められ、前認定のように本件当日は右清水ら鉄道公安課員は上司から組合員のビラはり行動阻止のため場合によつては実力行使をせよと強い命令を受けていたこと、他方被告人ら組合員は国鉄当局側の前記警告にかかわらずこれを無視しビラはり斗争を強行していたものでこれを阻止するため右のような強い命令を受けていた公安課員が被告人の提げていた糊入りバケツを取り上げる行為に出でる可能性も全くないとはいえない状況下にあつたこと、押収してある本件当時被告人が着用していたアノラツク(押第七号)、同ズボン(押第八号)ならびに被告人の当公判廷における供述によれば糊は右清水にばかりではなく被告人の着衣上下の左側・側面部、左腕部などに相当量付着していることが認められるのに右清水に糊を浴びせかけたとされている被告人の着衣の右部分に何故相当量の糊が付着しているのかその合理的な理由が解明されていないこと、前認定のように被告人が提げていたバケツ内の糊は水のような極めて流動性の強いものであつて、しかもこれが前記バケツの六ないし八分目まで入つていたのであるから被告人の弁解どおりに、もし、右清水が右手で被告人のバケツを提げていた左手首を握つて強くひつたくつたと仮定した場合には糊が飛散して右清水および被告人に対して本件と同じような状態で糊が付着することも考えられないでもないことが窺われることなどが認められるのであつて、これらの諸事情をあわせ考えてくると前記証人久野の供述のとおりに「被告人が糊入りバケツを下から上に振つて右清水にかけた」ものとも直ちに断定することはできず、他に被告人が右清水に糊を浴びせかけたことを認めるに足る信頼すべき確証はない。

そうだとすると、結局本件については、被告人に対しては、犯罪の証明がないときに該るので、刑事訴訟法第三三六条に則り無罪の言渡をなすべきものである。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判官 池田久次)

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